紅宝石少年

ゆきやの読んだ本や行った場所を紹介する気ままブログ。ブログタイトル「紅宝石少年」は、大すきな漫画カストラチュラから。

だらだらと

二次創作の行き詰まりに立っている。 作品を愛せなくなったというわけではない。 自分の妄想のしぼみも否めないが。 多分、自分の妄想を形にする言葉の摂取を長らく忘れたためだ。

萌える、という言葉がある。 瞬間的に何かを見て、瞬間的に発する呪文のようなものだと思う。 けれど、その萌えがなんなのか、他の言葉ではあまり形容されない。 形容されないというのは言い替えができないということだ。

二次創作の多くは、作品やキャラクターにこんなセリフを口にしてほしい、こんな行動をとってほしいというのを形にするものだと思う。オリジナルの力を借りて何かを言い替えさせる。 オリジナルの特性を借りながら、二次創作者はキャラクターに自分の思いや願いを形容してほしいと願う。まるでオリジナルを口寄せの巫女に見立てて、自分の欲しい言葉を紡がせるように。 ここで大事なのはあくまで、二次創作者が巫女になってオリジナルの言葉を紡ぐのではなく、オリジナルが巫女となって二次創作者の言葉をもどいている点だ。 二次創作者はオリジナルという触媒なくして言葉を語る事が出来ない。

さて、萌えに戻ろう。 萌えは、人によって違うがとりあえず萌えと言っておけば正体不明の、けれどポジティブな感情を他者と共有できるという素晴らしい言葉だ。ある種、鵺という妖怪のような言葉である。 Aというキャラクターがいるとして、Aの良さを他者と共有したい場合、普通はまず言葉を尽くす。Aの髪の色だとか瞳の色だとか肌の色だとか、雰囲気がどうとか、言葉にする。そして、Aに対する思いをAを共有したい他者に伝え、他者が同意し、Aに対する思いをぶつけ返す。そこには言葉があふれている。 対して萌えというのは、例えばAを体現したイラストを自分と他者で見る。そして、一瞬にして「萌え!」と互いが呟き合えば終わる。なぜ萌えるのか、何に萌えるのか、あまり深くは追及しない。追求すれば互いの認識のずれが明確になるためだ。

Aに対する思いを、昔は1000文字でも2000文字でも綴っていたが、最近は人に簡単に意見を見てもらうツールとしてのツイッターが持つ140字という制約ゆえに、言葉をどんどんそぎ落とした。削ぎ落した結果、言葉を忘れ、無限に形容できていたものが一辺倒となり、「萌え」や「素敵」などで済ますことが多くなった。

結果、言葉にならないものは正体不明の言葉にひとくくりにされ、それ以上のものにならず、自分の中の思いは形にならず、形の一種たる二次創作が終息を迎えたのだった。

言葉は蓄えなければ、使って何かを表現しなければ、その価値はない。怒りや憎しみすら、言葉によって自由に表現できれば、違う何かになるかもしれない。 苦しみもどんな苦しみか言葉にしつくし続ければ、苦しみを解消する糸口が見つかるかもしれない。 言葉自体は無限なのに、それを摂取すること、それを使って表現することを怠るだけで人は阿呆になる。 そしてインターネットの検索サイトが検索ワード保管までしてくれる便利さから、多くの言葉を人は必要としなくなってきた。 そもそも検索するのだって、調べたい言葉があるから検索するのであって、それがなければ、検索サイトの与える言葉の井戸で、ここが大海だと勘違いするようなものだ。 さて、だらだらと言葉を紡いだ。 実は7行目ぐらいからかくのも面倒だった。自分の思いを形にするというのは面倒くさい。昔はやりがいにあふれていたのにね。