紅宝石少年

ゆきやの読んだ本や行った場所を紹介する気ままブログ。ブログタイトル「紅宝石少年」は、大すきな漫画カストラチュラから。

【たわごと】加瀬賢三から仰木高耶に至った経緯がもうすぐわかるのかもしれない。

加瀬賢三は、生きるということに精神の限界をきたしていた景虎様なのかなと「ヤドカリボレロ」の独白シーンを見て思った。
400年終わることのない怨霊調伏、心を許した人間がまさかの宿敵となり、自分を追い詰めてくる始末、そのなかで仲間の指示系統を保持し、リーダーとして、誰にも弱さを見せず前線に立って戦う。
呼吸すら時に困難になるボロボロの体で。精神の癒しを求めたくても、自分の弱みになった人間は攻撃対象になるから、心を許す(――癒してくれる)人を作ることもできず(ヤドカリのころはまだ美奈子が登場していない)。
普通の人間ならいっぱいいっぱいだ。イエス・キリストだって、最期には「我が神我が神なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫んだくらいだから、救い主にだっていっぱいいっぱいで苦しくなることはあるだ。完全無欠に見える景虎さまもその例外ではない。
本当は弱い人なのだ。小田原の浜辺で起きた事件からの人間不信、縋りたい謙信公はいつも遠くからこちらを見ているだけで、救いの手を差し伸べてくれない。強い人間のふりをしないとみんな側にいてくれないと(景虎さまの思い違いなのだけれど)、どこまでも強く孤高であろうとする。
そして、直江の精神を押しつぶして(それすら無意識に罪悪を抱いているよう)、自分を求めるように願う。
骨までしゃぶりつくして――、その先の答えは、「終わらせてほしい」ではないか。
400年にわたる、辛く苦しい生を、もういいのだと、やめてもいいのだと、終わりにしてもいいのだと。
誰よりもそばにいた直江に願う。
願ってしまう、景虎様の奥の奥にある、秘めた思い。
終わりは知っている。知らないのは、その過程に至った、景虎様と直江の心だ。
お前だけは永久に許さないと、怨嗟の声を漏らした景虎様と、
その景虎様を失ってなお換生を続け、景虎様を探し求めた直江と。
それも間もなく明かされるだろう。
景虎様が加瀬の人生で絶望しながら、それでも一縷の望みをかけるように仰木高耶に換生した、理由も、生きるということに精神の限界をきたしていたにもかかわらず、希うように、直江との関係が真っ白の高耶さんになった、その真意も。
紅蓮坂のその先で、あるいは、舞台の第4弾以降で、明かされるかもしれない。
それをじっと待っている。