紅宝石少年

ゆきやの読んだ本や行った場所を紹介する気ままブログ。ブログタイトル「紅宝石少年」は、大すきな漫画カストラチュラから。

amazonプライムさんで「少女革命ウテナ」を見ていました

特に本も読まずに過ごしていたのですが、
その間、amazonプライムさんで「少女革命ウテナ」を見ていました。
確かリアルタイム時は、中学生で
話の内容がちんぷんかんぷん。
後半になると肌色というかエロスが濃くなって、ちゃんと見ませんでした。

で、なぜか舞台化が決まり、チケットも取れてしまったので、
予習も兼ねて、アニメ全話を見ることに。
いや、amazonプライム月400円で39話見られるとか、DVDの宅配レンタルより優秀です。そしてスマホにダウンロードできるので、時と場所を選ばず視聴できてかなり楽でした。はい。

で、内容ですが、
すでにいろんな方々がいろんな意見をまとめていますので、
特に私が何かこういわなければならないということはないのですけれど、
一言でまとめてしまえば、
この物語は、「姫宮アンシー」という一人の女の子の、狭く閉じた世界を革命したウテナという少女のお話。でした。
まさに少女革命ウテナ

繰り返される王子様とお姫様の物語。それがなんであるかもわからない「永遠」に焦がれて繰り返される、様式的な決闘。
それらが繰り返される中で、デュエリストや薔薇の花嫁の中に起こる変化がある種の化学反応のように見えました。

世界の果てたる暁生は何度も何度もウテナに、女の子でいること、お姫様でいること、女の子は王子様になれないこと、を説くのですが、ウテナは一度はそれに心を動かされながらも、最後はアンシーとの友情を選択します。
それは、ウテナが王子様になり、アンシーがお姫様になるという、王子様とお姫様の物語の円環ではなく、アンシーを自分は薔薇の花嫁=魔女という自意識から解放することだったのです。
鳳学園という狭い世界で、決められた役割を言われるがままに演じていた女の子(アンシー)は、王子様になれなかったけれど、友達を救いたいと願って行動した一人の少女(ウテナ)によって、外の世界へと出ていく意思が与えられます。

そこまで理解してようやく、この物語がどうしてこんなにも長い年月をかけて、(かつての、そして今の)少女たちに受け入れられた意味を見た気がします。
(かつての、そして今の)少女たちが抱えている社会への閉塞感。それを解消し、この世界にこだわらなくても、別の世界にってもいいという導を見せてくれたのが、ウテナでした。
彼女は、一風変わっていて、かつて王子様に救われたお姫様でしたが、王子様にあこがれるあまり、王子様になりたいと願った少女でした。
彼女は、役割を演じる女の子(アンシー)の本心を常に問い、友達としてどうにかしてあげたいと願います。
それは、この世を生きる女の子たちが求める理想の相手像ではないでしょうか。
役割を押し付ける王子様ではなく、魔女でもお姫様でもない、ただ一人の少女を心配する、友達。
何よりも得難く、美しく、気高く、求めてやまない魅力的な存在、それがウテナではなかったかと。
ウテナは漢字にすると「台」で、花を支える「がく」を意味するそうです。
その名の通り、アンシーという花を、ウテナは支えました。
最終話、学校から消えたウテナを生徒たちは話題にすらしません。生徒会並みにみんなを魅了していた存在のはずなのに、その存在すらすぐに忘れ去られてしまっています。
けれど、アンシーの中では深く生きていた。
だからアンシーは、眼鏡をはずし、チュチュはネクタイを外し(それらのアイテムすら何かの象徴だったのかもしれません)、私服に着替えて、ウテナを探しに行くと、鳳学園を後にします。
少女はとらわれた一つの世界から、次の世界へ一歩踏み出すことができたのです。
この時のアンシーは、もはや魔女でも薔薇の花嫁でも、ましてお姫様でもなく、一人の自立した女性のように見えました、

なんとも希望にあふれたエンディング。

(ただ、映画版では、城(世界)から逃れられてもまた新たな城(世界)が出現するという、重い現実を描いていますが…)

だらだら書きましたが、この作品に出会えてよかったなと思いました。
とりあえず、舞台とウテナ展楽しみです。はい。

 

なお、これは一個人の感想なので、こういう考えもあるんだ、程度に受け止めていただければ幸いです。