紅宝石少年

ゆきやの読んだ本や行った場所を紹介する気ままブログ。ブログタイトル「紅宝石少年」は、大すきな漫画カストラチュラから。

修道院のお菓子にはまる

昨年、修道会のお菓子をいただく機会があり、
食してみたところ、とてもおいしくてはまってしまった。
で、さっそく通販。

 

ルルドのキャンディー

www.lourdes1858.com

頂いたのはミント味でしたが、キャンディとラムネの中間みたいな食感で、
食べ終わるとミントが爽やかに口内をすぎて行きます。
ミント、レモン、アニスの3つの味があるらしく、
レモンを通販してみました。
美味しいといいな。

 

ポルポロン

fukurohonpo.ocnk.net

ポルポロン。口に入れるとふわっと溶けて、これが本当の、ポルポロンか―! と感動しました。

5種類ぐらい味があるので、色々楽しめます。

 

他にもガレットとかクッキーとかジャムとかあるので、試してみようかなと。

妹は猫 感想

久しぶりに本の感想です。『妹は猫/ブレイドコミックス/仙幸』。

 

妹は猫 1巻 (ブレイドコミックス)

妹は猫 1巻 (ブレイドコミックス)

  • 作者:仙幸
  • 発売日: 2020/08/07
  • メディア: Kindle
 

 

【あらすじ】

ねこ可愛がりたい妹、登場。

猫人一家に引き取られた、人間の猫太くん。
そこには、とっても可愛い「ネコ」な女の子がおりまして…。

お兄ちゃん大好きな義理の妹・ねねこちゃんとの、
ラブリーでキュートなキャットフル・ライフ♪

pixivコミックより

 

【感想】

猫人(二足歩行している猫、人間の言葉をしゃべる)がいる世界。
主人公の猫太くんは、家族を失い、母の知り合いの猫人一家に引き取られます。
そこには、無口だけれど心は温かい父、優しい母、そして幼稚園児のねねこちゃんがいました。

 

猫太くんの生活は、ねねこちゃんを中心に動きます。
翻弄されていけど幸せそうな猫太くんと、無邪気でニコーっと笑うねねこちゃんを見ていると、何でも許せてしまいそう…。

新キャラ、猫太くんのバイト先の喫茶店マスターの娘である、ココちゃん(黒猫、美人さん)も加わって、より楽しい感じに。

 

2巻が出るのが楽しみです。

折口春洋に関する一考察 改定

■家族考 一

 

 春洋氏は、明治40年能登一ノ宮の藤井升義の四男として生を受ける(『鵠が音』春洋年譜p.194より)。次兄・巽氏は折口信夫の書簡にも多く見受けられなじみがあるが、そのほかの家族について、あまり語られることがない。父母は、ほかの兄弟は、どうだったのか。春洋氏の家族について、『鵠が音』から見ていきたいと思う。

 名前の出てこない姉は、昭和2年の短歌に「七月の暑さのさかり わが姉は死に給ひたり。十年経にけり」(p.168)とあるので、大正7年にはすでにこの世にいないと思われる。昭和15年の「若くして 死にたる姉のひとり子の いくさにあるは、母に聞かさず」(p.77)という短歌から、姉には子どもがおり(春洋氏にとっての甥)、成人し、春洋氏よりも前に出征したと考えられる。

 また、長兄。

 大正8年、春洋氏は、長兄・次兄とともに金沢市に下宿して、学校に通うこととなる。このとき出てくる長兄は、昭和3~4年の短歌で、「長兄の病ひ八年を過ぎぬ」(p.162)とあるので、学校卒業後か、在学中の大正10年前後にはすでに病で臥せっていたのではないかと考えられる。なお、『鵠が音』掲載の島のたよりによれば、寝たきりだった長兄は、昭和20年初めにはなくなっているようだ。

 父は、昭和2年「小雪止みて、日照れり。いつしか、五年もゆきぬ」と題された中に「はなれゐて、父の日まもるさびしさの こよひは更けて寝なむと思ふ」とあるので、12月9日が誕生日でないなら、忌日と推測され、一家の大黒柱たる父も、大正11年にはもうすでにこの世にいなかったのではないか。

 最後に、母は藤井家の中で比較的長生きしたようだが、昭和15年の短歌に母の死を歌うものが多く見うけられるので、母もまた昭和15年には、この世から去ったのだろう。

 

 春洋氏に関して、次兄・巽氏しか表に出てこず、ほかの兄弟や父母が出てこないことを不思議に思っていたが、ずいぶんと複雑な生い立ちをしていたのだと気づいた。

彼はどんな思いで、短歌に家族のことを残したのだろうか。推し量れない。

 

■家族考 二

 『鵠が音』で春洋氏が師である折口信夫について、語ることは少ないが、昭和19年の「別れ来て(p.21)」で師への思いを語っている。引用しよう。

別れ来て、勤めに対ふすべなさよ。とほ嶺(ネ)のみ雪 あまり輝く

春畠に菜の葉荒びしほど過ぎて、おもかげに 師をさびしまむとす

東に 雪をかうぶる山なみの はろけき見れば、帰りたまへり

つゝましく 面わやつれてゐたまへば、さびしき日々の 思ほゆるかも

朝けより 彼岸中日空低く、霰のはしる道を 来にけり

人のうへのはかなしごとを しみ〴〵と喜び聞きて、師はおはすなり

 

折口信夫と面会後、折口信夫に送られた歌だが、その中で歌われるのが、愛しいでも、恋しいでもなく、「さびしい」という思いに驚く。

折口信夫は、中学の同級生、辰馬桂二への思慕、共に暮らした僧侶、藤無染への恋情、教え子、伊勢清志への執着、春洋氏の後継でやってきた加藤守雄への愛執、とさまざまな思いを複数人に向け、同性愛の人というイメージが強いが、春洋氏に向けた思いは、そのどれでもなく、家族愛だったのではないかと思う。

師の影であり、犠牲だった春洋氏が、生きて帰れるかわからない戦場へ赴任してようやく、折口信夫は、周囲の勧めで春洋氏と養子縁組することを決めている。

それは、同性愛的な結びつきというよりも、戦争で何かあった時に互いに何かを残すための契約のようなものだったのかもしれない。

春洋氏は折口信夫を「さびしみ」、折口信夫は春洋氏を「わが子」と言った。

二人の間にあったのが愛なのか恋なのか、他のものなのかは今になってはわからないが、二人は仮の家族から養子縁組を経て本当の家族となり、折口信夫の養嗣子として、春洋氏は時代の流れに埋もれることなく、研究されるなどして、今も、生きた証を故郷の羽咋に残している。

 

■髪の話

  折口家では、若いお弟子はたいてい少々長めのざんぎり頭だったと、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』p.76にあるが、春洋氏の写真を見ていると、そうでもなかったのではないか、と思う。

 坊主頭の写真もあれば、七三分けの髪型の時もある。七三分けの髪型は複数時期に見受けられる(熊野・紀州旅行や箱根など)。短髪が好きという、折口信夫のこだわりに反発して、春洋氏は髪を伸ばしていたのだろうか。

 この疑問を解決したのは、池田彌三郎氏の『まれびとの座 折口信夫と私』p.182の記述である。昭和24年1月6日、池田氏折口信夫に会いにいったところ、

「昨日、春洋の髪の毛をさがしていたら、加藤守雄あてに書いた、そして出さずにしまった私の手紙が出て来た。(後略)」と言われる。

 恥ずかしながらその記述を読んだ当時の私は、狂乱のあまり折口信夫が春洋氏の抜け毛でも探していたのかと思ったが、後日、2018年11月29日付毎日新聞石川県版「墓マイラー見聞録」という記事で、羽咋にある折口父子の墓に春洋氏の遺髪がおさめられている事を知った。

昭和24年とは、羽咋に折口父子の墓が建立された年である。昭和24年1月6日の折口信夫は、狂乱していたのでも何でもなく、春洋氏のどこかにしまわれていた遺髪を探していたのだ。池田氏の文章の本当の意味にやっと気がついた。

 春洋氏が時々髪を伸ばしていたのは、万が一のために、遺髪を用意するためだ。彼は軍人であった。

 内地にいた頃は、指導教官として多くの兵を戦地へ送り出す側の人間で、戦地に赴いたのは硫黄島のみであったが、常にその時を思って準備をしていたのだろう。

 

■家事スキル考察

  小谷恒氏の『迢空・犀星・辰雄』p.42によると、春洋氏を、「独身青年には殆ど考えられないほど料理が上手だった。左手も利く彼は器用に魚を三枚におろし、緊張してちょっと小さく口を開きながら、左手に刺身庖丁を持って、綺麗に刺し身をつくったりした。天ぷらを揚げることも数の子の味をつけることも折口以上に上手であった。」と評している。

 伊部春部氏や大森義憲氏の書くその他の資料にも、春洋氏が料理上手であることが記されているが、さて、独身青年にはほとんど考えられない程の料理の腕前を彼はいつ手にしただろうか。

 折口父子記念会事務局長のF氏や羽咋市文芸協会会長のY氏の話によれば、能登の漁に出る男性が魚をさばくことができるのは珍しくなかったこと、一ノ宮の社家の藤井家の子であれば、神に供える「熟饌」を作るところを見て育ったであろうことなどから、料理ができる男性の素養が充分にあったと思われる。

それらを踏まえて、ここからは憶測だが、それが花開いたのは、春洋氏が大正8年から、故郷能登を離れ、老婢を連れ、兄二人と金沢に下宿して高等小学校、中学校で暮らした時期ではないか(『鵠が音』春洋年譜p.194)。

しっかりした家計観念も、兄たちとの金沢の下宿生活の中で生まれたのかもかもしれない。

 その家事スキルゆえに、次第に折口家のすべてを任されるようになった春洋氏。

塚崎進氏の『折口信夫とその人生』p.193によると、「春洋は折口家の大黒柱であり、よきハウスキーパーであつたのだ」、と綴られている。

 

 

■軍人になる

  そもそも能登一ノ宮の社家に生まれ、高等教育を得た春洋氏が、なぜ卒業後の進路に軍人になることを選んだのか。

 病に臥した長兄、家を継ぐ次兄の代わりに兵役についたのかもしれない。

篠弘氏の「戦争と詩人たち 第7回――若き兵士を愛した春洋」によれば、昭和5〜6年に「金沢歩兵連隊に入り、幹部候補生となる。高学歴で資力ある者に限られた、当時の兵役法にしたがう。」とある。

ただ、3年の兵役が普通であるのに対して、一年志願兵として入隊(志願兵については、中野実氏、佐々木尚毅氏の「資料 初代総長渡邊洪基提出「一年志願兵規則改正ニ関スル建言」について」参照)している。予備将校になりたかったからなのか、兵役を短くしたくて一年志願兵になったかは不明である。

 ともあれ、春洋氏が兵に志願したことに変わりなく、折口信夫にとって、春洋氏が軍の検査に合格したことは驚きで、「最初、先生は金澤驛で春洋の甲種合格の話を聞かれて、鳥渡意外なものに興味を感ぜられた様であつた。よく考へて見れば、農村の子弟であらうと、大學生であらうと、靑年の身であれば一様にさう言う事だつてあり得る訣なのだが、今迄の我々の仲間では豫期もしてゐなかつた現象だつたのである。」と、藤井貞文氏の「たぶの木ぬれ「氣多はふりの家」解説」にある。

『春のことぶれ』の中で、折口信夫は「甲種合格の大学生に」と題して、その時の気持ちを歌に託しているので、ぜひ読んでいただきたい。

 春洋氏は昭和6年除隊後も、度々召集され、軍に戻った。

ある時は体を病んだこともある。昭和8年の第2回勤務演習入隊時に、特別演習に参加。そのせいで昭和9年に、膿胸を病み、臥床4ヶ月にも及んだ(折口信夫年譜より)。 

 

 

 

■戦時中の折口師弟

 折口師弟(まだ養子縁組を済ませていない時期なので、ここでは父子ではなく師弟とする)の生活を書いたものに、室生犀星氏の『我が愛する詩人の伝記』、小谷恒氏の『迢空・犀星・辰雄』ほか、さまざまな資料があるが、戦時中の折口師弟の生活の一端を描いた、山梨の民俗学者・大森義憲氏の「戦時中の釈迢空(一)(二)」が実に興味深いので紹介したい。

 大森義憲氏は慶應義塾大学出の折口信夫の門下であり、加藤守雄氏の『わが師 折口信夫』p.95によれば、「時々家へもやって来るが、春洋が憂鬱がってね。温和(おとな)しい人だけど、何にも言わないで、一日じーっと坐っているものだから」と折口信夫(以下折口)に言われている。

 

 「戦時中の釈迢空(一)」の折口師弟のやりとりを以下、ざっとまとめて要約し、箇条書きにする。

・外出先まで折口師弟に会いに行った大森氏がとりあえず、折口師弟のあとについて出石の家に来訪(その間折口師弟はその日見た狂言についての意見交換。議論はヒートアップ)

・帰宅後、春洋氏が夕飯の支度をしていると、時々折口が料理場まで行き、口論になる。

・折口が部屋に戻ると「ああ、しゃあくだ、しゃあくだ」などという春洋氏の声が響きわたり、包丁を持ったままの春洋氏が折口の部屋の外の廊下まで走って来る。

・身が縮む思いがした大森氏が帰ろうとすると、泊まっていきなさいと折口に言われる。

・春洋氏が折口に何かがみがみと言い、折口は非常に大きな咳で応戦。その様子を台風か暴風が過ぎるようと大森氏が形容。

・夕食は和やかに談笑のうちに終わるが、夕食後また折口師弟で言い争い。

・翌日、3人で朝食。メニューは焼鳥など。

・折口「白秋が亡くなって心細い」春洋氏「何が心細い事があるものか」のやりとりが、大森氏は意外。

 

「戦時中の釈迢空(二)」の折口師弟のやりとりは以下の通り。

国学院から、折口師弟について出石の家に大森氏が行く(やはり折口師弟は口論している)

・春洋氏、「へんな奴をつれて来て」と遠回しに大森氏の来訪の不満を折口にぶつける(「しゃあくだ」という言葉がまた出てくる。春洋氏の折口をののしる時の表現なのだろうか)

・折口師弟の口論が、近隣の家おも揺がすかと思う程のものだったと大森氏の形容。

昭和16年6月5日朝、大森氏が折口信夫を訪ねると、春洋氏が台所でおすしを作って、弁当の支度をしている。

・春洋氏は玄間の台所に降りたって、折口の靴の紐をいたいたしい程やせて細い手で結ぶ。この時、折口はすっぼら立ちの状態。

 

 金沢に召集された春洋氏に折口信夫が会いに行ったとき、二人が喧嘩のようになってしまってまわりが困惑したようなことが、弟子たちの資料に散逸しているが、むしろ日常的に喧嘩できるほど仲が良かった証なのかもしれない。

大森氏の資料は、喧嘩の描写もあるが仲の良さがうかがえる描写も多々ある。

 加藤守雄氏の『わが師 折口信夫』p.96で「言いたいことは沢山あるのに、そうして、きびしい批判力も持っているのに、みんな内攻してしまって、ふだんは短い言葉にしかならないのだろう。」と言われる大森氏だが、文章で雄弁に折口師弟の描写を残してくれていた。そのことに感謝したい。

 また、「我が師 釈迢空(三)」以降、春洋氏の養子縁組時の話、春洋氏の結婚の話(かなわなかったが)、春洋氏が召集されたのちの折口信夫の姿など、とても生き生きと描写されているので、折口師弟の生活の一端が知れる貴重な資料として、ぜひ、大森義憲氏の「戦時中の釈迢空(一)(二)」「我が師 釈迢空(三)~(五)」(中央線6~10号)を読んでいただきたいと思う。

 なお、これらの資料を偶然発見してくれた、野尻抱影・アザリア愛溢れるKさんに、この場を借りて感謝の意を表する。

 

  

■研究について

 春洋氏といえば、遺歌集『鵠が音』が有名だが、鳥船の編者としても本を残しているし、研究者としても論文をいくつか残している。

雑誌『民俗学』に故郷能登の民俗について書いた「くどきぶし」(3号)、「気多通信(一)」(4号)、「気多通信(二)」(5号)などがある。

また、『萬葉集の総合研究 第一輯』に「歌格・文法・修辞」、日本民俗第3号に「弱法師」という論文を書いている。

 雑誌『むらさき』には短歌「卵三つ」(8巻5号) 「兵は若し」(9巻7号)「偉いなるひと年」(9巻12号)論文「万葉集・家持を中心に」(10巻7号)が掲載されている。

座談会方式だが、國學院雜誌46(2)に「神功皇后輪講」、國學院雜誌69(2)に「神功皇后紀輪読」を展開している。

米津千之氏の「春洋の横顔」から判明したが、『東歌、大伴集読本』という著作が昭和12年に學藝社から出版され(北原白秋折口信夫編)、その主任をつとめている。

論文にとどまらず、ラジオにも出演していたらしい。石井正己氏の「柳田国男の放送」p.304によれば、国民講座「日本民俗学」のうち、昭和12年6月4日の第5回放送で、春洋氏が「祭り」と題した放送を行っている。

 また研究からは少し外れるが、改造社の『新万葉集 巻7』に22首短歌が採用されている。波多幾太郎氏がほめたという記録がある。

 

民俗学から、万葉集、古典芸能についてなど、研究対象は多岐に渡っていたことがわかる。

 

※春洋氏の研究論文についてその他をご存知の方はお知らせいただければ幸いです。

 

 

■妻帯したかもしれない

 池田弥三郎氏の『まれびとの座』p.218で、春洋氏の、貧乏だけれども家柄のいい女性との恋について触れられているが、その女性とは別に、春洋氏が結婚するかもしれなかった可能性を示唆する資料もある。  

 大きな神社の神職の長男、氷室氏の姉妹と、春洋氏を妻帯させる動きがあったが、かなわなかったことを大森義憲氏が「我が師釈迢空(四)」p.107に書いている。

引用しよう。

「氷室氏には二人の女姉妹があり、その一方の方は、藤井春洋氏の妻にという話しがあった事は聞いていたのである(後略)」。

 その女性は他の男性との縁談が定まりかけていたが、破断になったとも言う。

 その話のあと、氷室氏と大森氏の前で折口信夫は、春洋氏を養子にする心づもりを伝える。

「何時自分も死ぬかも知れぬ。そうすると、少しばかりの本なども、どうなることやら」とも言い、それらに大森氏は折口信夫の激しい気魄を感じたとも記している。

 

 また、栢木喜一氏の「飛鳥家と岡本家と」によれば、山本淑子さんという女性の存在があげられている。

彼女は、折口信夫ゆかりの飛鳥坐神社の神主の家の一つ、森家出身の、森知矩氏の従姉妹であり許嫁であった。

が、知矩氏が病死したため、二人は結ばれなかったので、春洋氏と一緒にしたらと折口信夫は考えていた。しかし春洋氏が戦死したため、折口信夫は彼女を自身の父の系譜に連なるものに嫁がせたという。

 

 戦争から帰ることがかなっていたなら、鈴木金太郎氏が折口の家を出たように、春洋氏も妻帯して家を出、出た先で、折口春洋として折口学を継承することがあったかもしれない。連綿と、折口の学問が、釈迢空とは違った折口春洋の歌が、折口の名でつながっていったかもしれない。

だが、それらは実現することのない夢であった。 

 

 

硫黄島

  春洋氏の硫黄島での概略を『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈2〉――ペリリュー・アンガウル・硫黄島――』、池田弥三郎氏の「折口信夫外伝――折口春洋少尉のこと――」などから見ていこう。

 独立機関銃第二大隊に配属された春洋氏は、昭和19年6月24日に編成され、7月10日に利根川丸に乗船し横浜港を出港、7月14日に硫黄島につき、栗原兵団長の指揮下に入った。

 「独立機関銃第二大隊第一中隊小隊長 滝澤信治中尉日記」によれば、第3中隊長 玉井興佐男中尉の元、第4小隊隊長に藤井春洋の名前がある。

 また「参考書類綴 独立機関銃第2大隊第3中隊兵器係(昭和19年6月)」に綴られている「将校拳銃番号」からも第3中隊所属だったことがわかる。同じく「兵器弾薬分散配置要図」及び「独立機関銃第二大隊第一中隊小隊長 滝澤信治中尉日記」から、硫黄島の屏風岩付近に配置されたと思われる。

折口信夫外伝――折口春洋少尉のこと――」によれば、その後、元山部落から、春洋氏率いる第四小隊が摺鉢山に派遣され、摺鉢山地区の長田大尉指揮下に入り、摺鉢山地区の陣地構築に取りかかったという。

島の衛生環境は悪く、水も硫黄が混じり(兵士は硫黄水と呼んでいた)、これを飲むと決まってみんな下痢をしたという。春洋氏の部隊の2人の分隊長のうち、一人は硫黄水の飲みすぎで、一人は負傷で内地送還(後に春洋氏の消息を折口信夫に伝える矢部健治氏である)になった。春洋氏も一度倒れるが、回復し、上陸当時よりもさらに健康になり、食欲が増し、こんなところに来て小隊長は肥えられたと兵に笑われると『鵠が音』掲載の島の便りに載っている(p.224)。前線にいながら、まだ、多少のユーモアが紡げるときもあったようだ。

 

 なお、摺鉢山に敵をひきつけ、元山地区の本隊がこの背後を襲い、敵を殲滅する作戦であったため、摺鉢山地区の防衛部隊は、全軍のためのおとり部隊だった。長田部隊に属していた春洋氏の部隊も例外ではない。

 『硫黄島協会のあゆみ』に、玉井隊、長田隊の戦闘記録が残っているが、分隊長2人を失った春洋氏の部隊が長田隊のどの部隊に編成されたかはわからない。しかしわかることは、激しい戦闘の末、玉井隊、長田隊、どちらの部隊も玉砕し、春洋氏が帰らぬ人となったことだ。

 

 

■中尉問題

 『鵠が音』p.253掲載の昭和20年1月の島の便りによれば、春洋氏は「そろそろ私も少尉の年限が十二月で一ぱいになつてゐるので、もし手続き等が順調に行けば、この二月あたりに中尉になるのではないかと思ひます。」と書き、階級章の星を島に送ってほしいと頼む。

しかし、戦局の悪化、アメリカ軍による硫黄島総攻撃で、階級章が届いたかどうかもわからず、また春洋氏自身も戦死している。

昭和20年11月、春洋氏死亡告知書を折口信夫が受け取るが、その際の肩書はまだ少尉のままである(折口信夫全集31巻 p.282)。

では、一体いつ、どうして死後、春洋氏は中尉になったのだろうか。

 

同じ手紙に記された、死亡告知書に

「戰沒者階級に關する件

戰沒者ノ階級ハ戰沒前ノ階級ニシテ進級ニ關シテハ上申中ナルニツキ發令次第通知申シ上ル間御承知被下度候

東京聯隊區慰恤係」

とある

これに則り、戦後春洋氏の進級に関する手続きが行われ、死後ようやく中尉になったと推察とする。

  

 

 

■引用・参考文献

 

折口春洋(1978)『鵠が音』中公文庫

室生犀星(1974)『我が愛する詩人の伝記』中公文庫

池田彌三郎(1977)『まれびとの座 折口信夫と私』中公文庫

小谷恒(1986)『迢空・犀星・辰雄』 花曜社

毎日新聞「墓マイラー見聞録」2018年11月29日付朝刊石川版

加藤守雄(1991)『わが師 折口信夫』 朝日文庫

折口信夫岡野弘彦(2019)『精選折口信夫 5』慶応義塾大学出版会   

藤井貞文(1963)「たぶの木ぬれ「氣多はふりの家」解説」 『折口博士記念會紀要 第二輯』

中野実 佐々木尚毅(1989)「資料 初代総長渡邊洪基提出「一年志願兵規則改正ニ関スル建言」について」『東京大学史紀要』

篠弘(2014)「戦争と詩人たち 第7回――若き兵士を愛した春洋」『歌壇 28(2)』

伊部春部(1953)「身辺のこと二三」 『三田文学 43(9)』

塚崎進(1961)『釈迢空折口信夫とその人生』桜楓社出版

大森義憲(1970)「戦時中の釈迢空(一)」『中央線6号』

大森義憲(1971)「戦時中の釈迢空(二)」『中央線7号』

大森義憲(1972)「我が師 釈迢空(三)」『中央線8号』

大森義憲(1973)「我が師 釈迢空(四)」『中央線9号』

大森義憲(1973)「我が師 釈迢空(五)」『中央線10号』

米津千之(1963)「春洋の横顔」 『短歌研究 20(8)』

藤井春洋(1929)「くどきぶし」『民俗学3号』

藤井春洋(1929)「気多通信(一)」『民俗学4号』

藤井春洋(1929)「気多通信(二)」『民俗学5号』

藤井春洋(1935)「弱法師」『日本民俗』小川直之 クレス出版

藤井春洋(1941)「卵三つ」『雑誌 むらさき8巻5号 』

藤井春洋(1942)「兵は若し」『雑誌 むらさき9巻7号』 

藤井春洋(1942)「偉いなるひと年」『雑誌 むらさき9巻12号』

藤井春洋(1943)「万葉集・家持を中心に」『雑誌 むらさき10巻7号』

北原白秋折口信夫編(1935)『東歌、大伴集読本』 學藝社

石井正己(1999)「柳田国男の放送」『東京学芸大学紀要』

山本三生 編集(1938)『新万葉集 巻7』改造社 

栢木喜一(1992)「飛鳥家と岡本家と」『折口信夫の世界―回想と写真紀行―』

折口博士記念 古代研究所編(1957)『折口信夫全集31巻』中央公論社

防衛庁防衛研修所戦史室(1968)『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈2〉――ペリリュー・アンガウル・硫黄島――』朝雲新聞

池田弥三郎(1962)「折口信夫外伝――折口春洋のこと――」『中央公論 77(5)(894)4月特大号』

「独立機関銃第二大隊第一中隊小隊長 滝澤信治中尉日記」

「参考書類綴 独立機関銃第2大隊第3中隊兵器係」

硫黄島協会(1997)『硫黄島協会のあゆみ』

もういくつ寝ると

もういくつ寝ると2021年です。
今年はいろいろ動いたはずなのに、終わってしまえば記憶がなく、いったい何をしていたのだろうかと思う次第です。
毎朝通っていた駅前の本屋がつぶれたのが個人的に大きく、新しい本との出会いを完全に失うというのが、結構人生で痛かったなぁと思います。

個人的には折口春洋氏を調べつくした感があり(資料探索の限界)、『鵠が音』文字起こしで、短歌から島の便りまで読んで、家族運の薄い方だったんだなぁとか、今まで読み飛ばしていた部分を発見して、しんみりしました。はい。

来年は、『東京オルタナティブ』と『恋する民俗学者』が本で出たらいいなぁと思います。あと、入手出来ていない、サバト館の山崎俊夫氏の『夜の髪』が電子書籍化の予定があるそうなので、気を長くして待ちたいと思います(箱本は持ち運んで読むのに不便だったので、気軽に持ち運べる電子化はうれしいですね)。

 

 2021年がこの記事を読んでくださる方にとって、良い年でありますように。




炎の蜃気楼セレクション 感想のようなもの

中学の時からミラジェンヌ、ゆきやさんです。
まさか完結16年目に30周年記念本が出るとは思いませんでした。
ほえー

 

炎の蜃気楼セレクション

炎の蜃気楼セレクション

  • 作者:桑原 水菜
  • 発売日: 2020/11/26
  • メディア: 単行本
 

 歴代の表紙に、各イラスト担当先生方の書下ろしイラスト1点と、文庫掲載を逃したモノクロのイラストなど、見ごたえ満載。
そして、桑原先生書き下ろしですが、
景虎様の香りを想像して、ビャクダンかな、キャラかな?とおもったり、邂逅編の書下ろしのラストが本編最後とリンクしてたり(そんな昔から約束していたんだね、直江)、幕末編では幕末の歴史を感じ、昭和編はかわいいお話だなーからの直江の思考、それな! って思いましたし、本編は、高耶さんに再会しても泣けなかった直江が、やっと涙出来たりと、なぜかウルっと来ました。
全編を通じて、香りがテーマになっていて、特になぜ仰木高耶が上杉景虎かわかったか、というのに一つの回答を得ました。はい。
できたら、千億一夜めの直江のお話を読みたかったですが、それは妄想で埋めます。

12月は炎の蜃気楼Rの出版と、
あと言えないけどもう一つ何か動きがあるそうなので(ときめきテレホンの音源復活だと嬉しいなぁ)楽しみです。はい。

 

 

八雲百怪完結編備忘録14 ヤングエース2020年11月号

現在ヤングエースで連載中の八雲百怪完結編、私が話を忘れそうなので、備忘録で、あらすじ残しときます(コミックが出るとわかったら消します)

 

【電子版】ヤングエース 2020年11月号 [雑誌]
 

 

煩悶青年と不死身兵士その14

母に顔がない
4歳でママから離された自分に、バクラバを焼いてもらった記憶などない
ハーンは告げる
アンネッタと同じく、私の中の(想像の?)ママだと
ハーンは左目を取り出して母に投げる
母に、目玉(義眼?)が付きやがて目玉に取り込まれ消えていった
大人に戻るハーン。
アンネッタにサヨナラを告げ、もう手紙は書かないという
少年を探すハーンに先に行ったと三郎が答える
三郎は言う
帰る? なぜ?
ヨミに来たかったのでしょう
ずっとここにいたらいい
先生は最初から危うかった
無闇に扉を開いてはこの国の古いものを暴き立てようとする と

(続く)

 

八雲百怪完結編備忘録13 ヤングエース2020年10月号

現在ヤングエースで連載中の八雲百怪完結編、私が話を忘れそうなので、備忘録で、あらすじ残しときます(コミックが出るとわかったら消します)

 

【電子版】ヤングエース 2020年10月号 [雑誌]
 

 

煩悶青年と不死身兵士その13

少年が言う
ここがヨモツヒラサカなら、イザナギのヨミからの逃走を真似るのはどうかと
まだヨミのものは食べてない
お手玉を化け物が食べた
イザナギが投げた髪飾りがぶどうに変わって追手がそれを食べたように
次は櫛だと、キクリの頭にあった櫛(いつの間にか手に持っていて)を化け物に投げる
最後に桃の実を投げようとすると蛇の三郎が現れ、桃の実は食べてしまったという
そのまま化け物にとらわれるハーン

 

三郎の回想シーン
いつからこうしているのか
まりあを思う
いつか必ず穴の外にまりあを出してあげると誓う

回想終わり
ハーンは子供の姿で母のそばにいる
母はハーンの好きなバクラバを焼いたという
ママには顔がない
それはもう私がママの顔を思い出せないからだとハーンは思う
(続く)

 

 

hongbaoshiboy.hateblo.jp

 

 

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