紅宝石少年

ゆきやの読んだ本や行った場所を紹介する気ままブログ。ブログタイトル「紅宝石少年」は、大すきな漫画カストラチュラから。

折口春洋さん(折口信夫の養子)について

折口(旧姓藤井)春洋(1907-1945)氏は、歌人であり、大学教授であり、軍人であり、折口信夫の養嗣子。
能登一ノ宮の社家の4男。

高等小学校と中学校は兄たちと一緒に金沢に老婢と共に下宿。
このころ家事能力を養ったのではと推察。
國學院予科入学。
折口信夫主宰の結社鳥船にかかわる。
折口信夫の家に他の学生たちと同じく出入りしていた。この時すでに結構気に入られている。
中村浩が折口信夫能登はいいですよ~的なことを言って、折口信夫と学生一同が能登に行くときに、実家が宿となる。この時、徴兵検査を受けていて、甲種合格。
卒業後、一年志願兵として、金沢で軍に入営。
翌年除隊。折口の元へ戻る。
昭和8年、召集され、演習で結構重い病気にかかる。最終的に軽井沢で療養。
折口信夫の家に下宿し、家事その他を一手に引き受ける。ただし、お手伝いさん的な女性は家にいたので、どこまでしていたのかは謎。
やがて國學院教授となる。
死後出た、歌集「鵠が音」が有名だが、
学生時代から、論文を発表し、その分野は、民俗学や、能・狂言記紀俳諧人など、多岐にわたる。また、北原白秋折口信夫編の東歌の本の主任をつとめたり、古典叢書を執筆したりしている。もちろん、鳥船の本の編集も担当。
柳田国男関係で、ラジオに出演したこともある。
ちなみに折口師弟は喧嘩するほど仲が良かった(大森氏の資料による)。
恋バナとか結婚の話もあった。
また、折口信夫の春洋氏に対する思い入れは、「月しろの旗」によく表れているのでぜひ読んでください。
昭和18年召集。
昭和19年硫黄島着任。少尉。
前後して、折口信夫と養子縁組。どちらかに何かがあっても互いに何かを残すためのものとしての縁組の色合いが強いと推察。
独立機関銃第二大隊第一中隊小隊長を務めるが、分隊長2人を内地送還で失う。元山部落から、春洋氏率いる第四小隊が摺鉢山に派遣され、摺鉢山地区の長田大尉指揮下に入る。
摺鉢山は硫黄島の戦いの最前線だったので、アメリカ軍が上陸した2月17日には死んだであろうと推察され、命日=南島忌とされる。
死後、中尉。
昭和24年、父子墓が羽咋に建立され、軍刀と遺髪がおさめられる。

 

参考文献

折口春洋(1978)『鵠が音』中公文庫

室生犀星(1974)『我が愛する詩人の伝記』中公文庫

池田彌三郎(1977)『まれびとの座 折口信夫と私』中公文庫

小谷恒(1986)『迢空・犀星・辰雄』 花曜社

毎日新聞「墓マイラー見聞録」2018年11月29日付朝刊石川版

加藤守雄(1991)『わが師 折口信夫』 朝日文庫

藤井貞文(1963)「たぶの木ぬれ「氣多はふりの家」解説」 『折口博士記念會紀要 第二輯』

中野実 佐々木尚毅(1989)「資料 初代総長渡邊洪基提出「一年志願兵規則改正ニ関スル建言」について」『東京大学史紀要』

篠弘(2014)「戦争と詩人たち 第7回――若き兵士を愛した春洋」『歌壇 28(2)』

伊部春部(1953)「身辺のこと二三」 『三田文学 43(9)』

塚崎進(1961)『釈迢空折口信夫とその人生』桜楓社出版

大森義憲(1970)「戦時中の釈迢空(一)」『中央線6号』

大森義憲(1971)「戦時中の釈迢空(二)」『中央線7号』

大森義憲(1972)「我が師 釈迢空(三)」『中央線8号』

大森義憲(1973)「我が師 釈迢空(四)」『中央線9号』

大森義憲(1973)「我が師 釈迢空(五)」『中央線10号』

米津千之(1963)「春洋の横顔」 『短歌研究 20(8)』

藤井春洋(1929)「くどきぶし」『民俗学3号』

藤井春洋(1929)「気多通信(一)」『民俗学4号』

藤井春洋(1929)「気多通信(二)」『民俗学5号』

藤井春洋(1935)「弱法師」『日本民俗』小川直之 クレス出版

北原白秋折口信夫編(1935)『東歌、大伴集読本』 學藝社

石井正己(1999)「柳田国男の放送」『東京学芸大学紀要』

栢木喜一(1992)「飛鳥家と岡本家と」『折口信夫の世界ー回想と写真紀行ー』

折口博士記念 古代研究所編(1957)『折口信夫全集31巻』中央公論社

防衛庁防衛研修所戦史室(1968)『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦〈2〉――ペリリュー・アンガウル・硫黄島――』朝雲新聞

池田弥三郎(1962)「折口信夫外伝――折口春洋のこと――」『中央公論 77(5)(894)4月特大号』

「独立機関銃第二大隊第一中隊小隊長 滝澤信治中尉日記」

「参考書類綴 独立機関銃第2大隊第3中隊兵器係」

硫黄島協会(1997)『硫黄島協会のあゆみ』